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作品No.126 デュエット
作品No.125 街道
難波田史男の展覧会
難波田史男の展覧会
わずか32歳でこの世を去った画家・難波田史男の展覧会、世田谷美術館で開催されていますので、見に行きました。
少し自分の作風に似た所があるので、興味がありました。大きな作品より小さめの作品に良い物が多かったように思いました。



わずか32歳でこの世を去った画家・難波田史男の展覧会、世田谷美術館で開催されていますので、見に行きました。
少し自分の作風に似た所があるので、興味がありました。大きな作品より小さめの作品に良い物が多かったように思いました。



メタセコイア
初詣
氷川神社
世田谷区喜多見4-26-1に鎮座する喜多見の「氷川神社」に初詣に行ってきました。いつもは元旦にお参りしますが、今年は元旦の午後には雪が降るなど、寒かったため2日にしました。
氷川神社の由緒
氷川神社と江戸氏(神社のHPより)

当社は天平十二年(七四〇)の創建と伝えられているが、延文年間(一三五六~六0)に宮殿大破し、ついで多摩川洪水のため古縁起・古文書など流失して詳細は明らかではない。古く多摩川岸に近いところにあったという。
永禄十三年(一五七〇)この地の領主江戸刑部頼忠(東京の開祖江戸重長の末流で後に喜多見氏と改めた)は当社を修復し国家安泰・武運長久を祈願し、天和二年(一六八二)喜多見若狭守勝忠は篤く当社を敬い神領五石二斗を寄進し再興す、慶安二年(一六八七)喜多見若狭守により再建せられた。
承応三年(一六五四)に喜多見重恒・重勝兄弟は銘文を刻んだ石の鳥居を寄進し今に残っている。また当社の別当を華蔵院と称し、慶安二年(一六四九)徳川家光より社領十石二斗余りを賜わっている。
もと祭礼には湯立神楽が奉納された。明治十七年郷社に昇格し、大正十一年社殿改築の計画が震災により一時中止となり同十五年に落成した。昭和六十三年不慮の災いをうけ社殿焼失、平成二年に現社殿を再建す。


世田谷区喜多見4-26-1に鎮座する喜多見の「氷川神社」に初詣に行ってきました。いつもは元旦にお参りしますが、今年は元旦の午後には雪が降るなど、寒かったため2日にしました。
氷川神社の由緒
氷川神社と江戸氏(神社のHPより)

当社は天平十二年(七四〇)の創建と伝えられているが、延文年間(一三五六~六0)に宮殿大破し、ついで多摩川洪水のため古縁起・古文書など流失して詳細は明らかではない。古く多摩川岸に近いところにあったという。
永禄十三年(一五七〇)この地の領主江戸刑部頼忠(東京の開祖江戸重長の末流で後に喜多見氏と改めた)は当社を修復し国家安泰・武運長久を祈願し、天和二年(一六八二)喜多見若狭守勝忠は篤く当社を敬い神領五石二斗を寄進し再興す、慶安二年(一六八七)喜多見若狭守により再建せられた。
承応三年(一六五四)に喜多見重恒・重勝兄弟は銘文を刻んだ石の鳥居を寄進し今に残っている。また当社の別当を華蔵院と称し、慶安二年(一六四九)徳川家光より社領十石二斗余りを賜わっている。
もと祭礼には湯立神楽が奉納された。明治十七年郷社に昇格し、大正十一年社殿改築の計画が震災により一時中止となり同十五年に落成した。昭和六十三年不慮の災いをうけ社殿焼失、平成二年に現社殿を再建す。

